先週の主日、わたしたちは「だれがまことに幸いな人なのか。」についてのイエス様のみ言葉を聞きました。それについてイエス様は、「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、イエス様のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」こそ、「まことに幸いな人」であると教えられました。つまり、そのような人々は、この世ではなく神様だけに全てを任せ、また、神様を強く信じているので、神様ご自身が彼らに素晴らしい報いを与えてくださるということです。イエス様は、その「まことに幸いな人々のリスト」を弟子たちに告げられました。それは、ご自分の弟子たちがその幸いを目指して生きて行くことを望まれたからでしょう。イエス様は、彼らがイエス様の教えを忘れず、世の中のものにより頼むことなく、神様だけに希望を置いて生きることを望まれたのです。

そして今日、イエス様はその「まことに幸いな人である」弟子たちを「地の塩」と呼ばれ、更に、「世の光」とも呼ばれました。それは、そういった使命を彼らに授けられたようなもので、言い換えれば、これから彼らは「地の塩、また、世の光」として務めることになるということでしょう。イエス様は彼らが「地の塩」として地を清め、様々な腐敗から地を守る人となり、また、「世の光」として罪と悪に染まっている世の暗闇を明るく照らす人となるのを望まれたわけです。それは、イエス様ご自身の使命でもありましたが、イエス様は御言葉という「塩」で、地の偽りと偽善に打ち勝ち、色々な弱い立場にある人たちには神様の慈しみと愛を教えて彼らを力づけてくださいました。また、十字架の上でご自分の命をささげて、罪と死の重荷に押しつぶされているすべての人をその軛から自由にし、神様の慈しみと愛で輝く「十字架の光」へと招いてくださったのです。そんなイエス様だからこそ、ご自分の弟子たちが同じ使命を果たす人となることを望まれるのは当たり前でしょう。その「愛の福音という塩」と、「十字架という光」を保つ人、その人たちこそがイエス様と共に生きる人たちであり、まことに幸いな人であるのは言うまでもありません。イエス様はご自分の弟子たちは勿論、ご自分を信じ、また、従う全ての人々が、その慈しみと愛をもって「十字架の光」を輝かせる人となることを望んでおられます。その人たちの群れに、わたしたちも招かれているでしょう。

今日の第一朗読は、神様が望んでおられる断食について語っています。普通、断食は悔い改めのしるしと言われますが、今日の第一朗読は愛と慈しみを実際に行うことこそ、神様が望まれるまことの断食であり、神様の民の当たり前の生き方であると言っているのです。その生き方を証しするため、イエス様は慈しみと愛を十字架上で全うされました。そこで、使徒パウロは今日の第二朗読で、自分にとって一番大事なのは、「十字架につけられたイエス様である」と力強く訴えています。きっと他の使徒たちも同様だったでしょう。彼らはその愛の十字架によって「地の塩、また、世の光」というイエス様の使命に与り、そのイエス様の栄光のいのちにも与ることを信じていたのです。世の人たちにとって、その十字架の生き方はとても不幸な生き方のように見えるはずですが、使徒たちにとって十字架はイエス様の命に導いてくれる唯一の道だったでしょう。その十字架という「地の塩、世の光の道」を、わたしたちより先に歩み抜いたのは使徒たちだけではありません。

今日わたしたちは、我々の教会の守護の聖人である「日本二十六聖人」の祝日を祝っています。聖人たちは今から426年前、京都から長崎までの道を歩き、西坂で十字架に付けられて殉教しました。聖人たちは神様の慈しみと愛を証しされたイエス様のミサを愛し、そこで学んだ福音を信じ、それを至る所で宣べ伝え、また、生活の中で証ししたに違いありません。そして、とうとう最後に実際にイエス様の十字架に与る栄光をいただいたのです。聖人たちはただ信仰のある人たちだったから十字架につけられたのではなく、その十字架にしみ込んでいる神様の慈しみと愛を証ししたから十字架につけられました。聖人たちにとって、その十字架はどれほど光り輝くものだったでしょう。世の人たちの目には、その十字架に至るまでの道は残酷で苦しい道であり、その十字架は恥のしるしのように見えたはずです。しかし、聖人たちはその道と十字架を、喜びと愛の道、また、救いのしるしとして受け止めました。わたしたちも同様で、互いに愛し合い、受け入れ合い、励まし合い、支え合いながらこの信仰の道を歩み、互いに相手の十字架を一緒に担ぎ合うならば、わたしたちも「地の塩、世の光」としての使命を果たせるでしょう。これからもわたしたちが日本二十六聖人に倣って、イエス様の愛の晩さんであるミサを大事にし、福音によって「地の塩」となり、十字架によって「世の光」となれるよう、聖人たちの取り次ぎを願い、神様の力と恵みを祈り求めましょう。