日の福音で、イエス様はある貧しいやもめの献金について誉められました。多くの金持ちがたくさんの金を賽銭箱に入れていたが、彼女はわずかレプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたでしょう。それを見つめておられたイエス様は、多くの金持ちより、彼女が一番たくさんのお金を賽銭箱に入れたとおっしゃったわけです。
さて、マルコの福音によると、この出来事は神殿で起きたように見えます。実は、この出来事の後、何人かの人たちがイエス様に、その神殿の素晴らしさについて次のように語ります。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と。ところが、ルカの福音によると、彼らは、「神殿が見事な石と奉献物で飾られている」と、イエス様に語ったそうです。きっと、彼らは誇らしげに言ったでしょう。確かに、その神殿は多くの人々の献金によって、見事な石などの建築材料で建てられた素晴らしい建物だったに違いないと思われます。しかも、それを建てるのに、何と四十年もの時間がかかったそうです。しかし、その神殿は西暦七十年、無惨に破壊されました。イエス様はかつてそれを予言されたでしょう。
今日、イエス様はその神殿の賽銭箱の向かいに座っておられました。神殿とは、イエス様の御父である神様の家、神様に祈る家。そこに座っておられるイエス様の姿を、心の中で想像してみましょう。その神殿の隅々まで見つめながら、神殿の香ばしい香り、輝かしい光を味わっておられるイエス様が見えるような気がします。そこに、大勢の金持ちが来て、また、一人のやもめも来ました。金持ちたちは、財布からたくさんの金を賽銭箱に入れながらも、心の中では、自分たちの豊富さを見せつけているかのように見えます。賑やかに振る舞える場所ではないのは彼らも知っていたでしょう。しかし、賽銭箱から聞こえる彼らの多くの金が、互いにぶつかりながら大きな音を出しているだけです。その音が、彼らの心を代弁しているような気がします。でも、イエス様は、彼らが有り余る中から金を入れたことを、よく見通しておられました。彼らは、自分たちが神様にささげられる金を自ら計り、それをささげたわけです。
でも、やもめは計るほどのお金も持っていませんでした。献金を終えた大勢の金持ちがそこから離れ去った後、周りを見回しながら賽銭箱に向かったやもめの姿が見えるようです。彼女は賽銭箱にレプトン二枚を静かに入れました。何の音もしませんでした。ほっとしたかのように、彼女は急いで神殿から離れ去りました。しかし、イエス様はご存知でした。彼女は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたことを。イエス様は、大勢の金持ちの金が出したやかましい音より、彼女の二枚の銅貨の音に耳を傾けておられたでしょう。
そのやもめは神様にすべてをささげ、自分を任せました。捧げるというのはそういうことでしょう。捧げものには色んな形があり、それらを奉献と言います。その奉献には献金もあり、献品も、奉仕もあります。時間も捧げられるものの一つのたぐいでしょう。でも、いずれにせよ、自分自身を、自分のすべてを、いわば命を捧げるのです。それには、自分は何もできないことを認める謙遜な心が大事です。イエス様は、何の音もしないやもめの献金を喜ばれました。これからのわたしたちの信仰生活がそういうささげものとなるよう、お祈りいたします。